西欧解剖書の初めての本格的な翻訳書。ドイツ人医師クルムスの解剖書のオランダ語訳『ターヘル・アナトミア』を日本語に訳したもの。
翻訳の中心となったのは杉田玄白や前野良沢ら4人。玄白らは明和8年(1771),江戸で行われた解剖を見学,持っていた解剖書の正確さに驚き,同書の翻訳を決意する。銅版解剖図は小田野直武が木版画に直した。
この書で,軟骨・神経・門脈などの言葉が玄白によって新しく作られている。(木下浩)
中国・明代の医師で日本に帰化した戴曼公(たいまんこう)が,天然痘にかかった患者の唇や舌の症状を詳しく調べ,その症状から天然痘の重症度を判断するための書。天然痘流行時に実際の治療に役立てられたが、この写本には唇や舌の図は欠けており,顔面の経絡などが図で示されている。(木下浩)
中島家ではいろいろな分野の薬を販売していたと考えられるが,肝凉圓(かんりょうえん)は小児の薬。同じ名前の薬が岡山藩の藩薬として販売されており,また全国的にも各地で販売されていた。
1服10文で販売。(木下浩)
『胎産新書(たいさんしんしょ)』は備前金川の医師難波抱節が著した産科の大著。江戸時代における「最良の産科書」と評価されることもある。書の内容は,多くの医書からの引用と抱節自身の産科診療の経験に加え,動植物からの薬剤まで含んだもので,抱節の40年における産科の集大成ともいえるものである。中島家の『胎産新書』は,1冊が欠けているが,「備前金川難波蔵書」の印が押してあるものがあり,難波家旧蔵の貴重な資料である。(木下浩)
明治12年の虎列刺(コレラ)流行において,中島乴(たもつ)が予防・治療に尽くしたので,その報償として金7円を下賜するという内容。岡山県下でも大流行した明治12年のコレラ流行に対し,その治療に尽力した医師に対して岡山県が報償を出していることがわかる。(木下浩)
『回生鈎胞(かいせいこうほう)代臆』は中島友玄が37年間の産科手術記録をまとめた資料。「回生」とは,死んだ胎児を子宮から取り出し,母胎を救う手術のこと。「鈎胞」とは,出産後に鈎(かぎ)を用いて胎盤を下ろす手術のことである。中島家は,友玄とその父宗仙が産科を学び,中島家の中心的な診療の一つとして産科を行っていた。この資料には,274件の記録が残されており,その中には21件の死亡事例もある。当時の出産が命がけであったことがうかがえる。(木下浩)
国学者平田篤胤は医師でもあったが、その篤胤が講演した話を門人たちが筆記にまとめた書。
医道の大意、すなわち医師の心得を説いたもので、口語体で記され、篤胤の思想がよくあらわれている。
この中で篤胤は、西洋医学の外科・解剖・内科はいずれも有用であると認めていて、話の内容も「解体新書」や「医範堤綱」から引用している。しかし、のちの著作では西洋医学を厳しく批判しているところが興味深い。(木下浩)
八代将軍吉宗が、庶民への医療知識の普及をはかるために編纂・出版させた医学書の一つ。
幕府の医師の林良適と丹羽正伯が、幕府所蔵の医学書の中から、庶民に入手可能な薬や簡単な治療方法を選び、それを平易な文章で紹介している。
江戸時代の数少ない官刻医書の一つで、官費で製作され、当時としては代銀9匁8分という格安の値段で販売されたという。
林良適は、吉宗が設立した小石川療養所の医師。(木下浩)